知っておくとより楽しめるかもしれない伊達家中の色々〜

□伊達政宗
■正式名・幼名  伊達 藤次郎 政宗 ・ 梵天丸
■生没  1567年(永禄10年)〜1636年(寛永13年) 享年70歳
■辞世の句  曇りなき心の月を先だてて 浮世の闇を照らしてぞゆく
■生い立ちや逸話色々 ・父は伊達輝宗、母は山形最上氏・義姫。
・幼い頃、疱瘡(天然痘)を患い右目を失明。一説には眼球が飛び出し、大変醜かったと伝わる。そのため実母・義姫に疎まれ、弟である竺丸のちの小次郎を溺愛。その弟に家督を継がせんと政宗暗殺未遂事件まで起こす。
このとき『母はどうあっても切れぬ』と弟・小次郎に切腹を命じ、義姫は実家である山形の最上家へ放逐された。晩年、最上家改易にあたり義姫を仙台へ引き取りともに暮らした。

・父・輝宗は政宗を溺愛し、幼い頃からその教育には熱心だった。
政宗に一才年少の伊達成実を学友として選び、十歳年長の片倉小十郎を傅役に取り立てた。(これに鬼庭綱元を加え、『伊達の三傑』と呼ばれる)
また禅師として名高い虎哉宗乙(こさい そういつ)を招き、政宗の教育を託す。

・失くした右目のことを聞かれた時には『木登りをしていてうっかり落ち、枝に引っ掛けてしまった。その引っ掛けた目玉も食ってしまった』と大胆に言い放ったと言われている。

・近習・只野作十郎への恋文が確認されている。
 
*衆道はこの時代それなりの権力者には当たり前のことで、嗜みでもあった。多くの場合それは優秀で見込みのある男子(十歳前後)を手元に置き教育を施す為で、所謂性的な意味合いは希薄であったらしい。(もちろん性的なものも無かったわけではない・・・)

・料理の趣味あり。主に兵糧の研究だったらしいが、後年、戦から遠のくと美食へ走ったらしい(笑
 *仙台納豆や凍み豆腐などを考案。ずんだもちも政宗の考案したものだとの説あり。



□片倉小十郎
■正式名  片倉 小十郎 景綱
■生没  1557年(弘治3年)〜1615年(元和元年) 享年59歳
■辞世の句  不明
■生い立ちや逸話色々 ・神職(米沢八幡宮の宮司)兼武士の家に生まれ、文武に優れていた。そのためはじめ伊達政宗の父・伊達輝宗の徒小姓として仕えた。その後1575年(天正3年・19歳)伊達家家老・遠藤基信の進言により政宗の傅役に抜擢される。

・幼い頃の政宗は疱瘡で醜い自分に自信が無く、暗い内向的な性格だったという。それを良しとしなかった小十郎がその飛び出た眼球を小刀で抉り出したという話が伝わっている。その後、政宗の性格も明るく豪放になったという。

・政宗初陣の際、敵に囲まれ危機に陥った政宗を助ける為『我こそが政宗なり』と名乗りをあげ、敵を惹き付け窮地を救ったという話が残っている。

・兜の前立ては愛宕権現の守札。
 
元々愛宕は火伏せの神だが、神仏習合により将軍(勝軍)地蔵も祭られるようになり、そこから戦の勝利を祈願することに繋がった。

・小田原参陣の際、『秀吉は追っても追ってもついてくる蝿のようなもの。それならば大人しく罷り出たほうが得策』と進言説得し、伊達家の改易を免れた。

・政宗の養育係である喜多は、小十郎の異父姉。

・亡くなった時はその人柄を慕って家臣六名の殉死者を出した。

・関ヶ原の合戦後、一国一城令が敷かれる中、特例として残された白石城1万3000石の城主となり、以後、片倉家は明治まで11代にわたって白石の地を治め続けた。仙台藩において、片倉家の家格は一家。

・幕末後、片倉家は領地を取り上げられ北海道開拓に従事。現在の札幌市白石区の地名はその名残である。


□片倉 重綱
■正式名  片倉 小十郎 重綱(重長)
■生没 1585年(天正13年)〜1659年(万治2年) 享年76歳
■生い立ちや逸話色々 ・片倉小十郎景綱の長子。母は矢内氏。

・重綱を懐妊したと知ったとき、政宗にまだ子ができないことを憚って、生まれたら殺すつもりでいたという。そのことを知った政宗が取り成し、無事生まれた重綱は成長した。>うーん、こじゅ父生真面目というか、乱暴というか・・・

・小十郎重綱(重長)は大変な美男で、その上武勇にも長けていた。病床の父・景綱の代わりに参陣した大阪の陣ではその凄まじい戦いぶりから“鬼の小十郎”との異名を取った。
*もの凄い余談*
 気の毒なことにその美貌から、あまたの男子から声を掛けられたそう。
 特にご執心だった金吾中納言(小早川秀秋!)は、その仲立ちを政宗に頼んだとか。そして頼まれた政宗は『大したことなしいし、偉い人の言うことなんだから一回くらい相手をしてやりなさい』などというどうしようもない文を送ったそうな。・・・管理人はそんな政宗にもラブvですが(笑)それでも嫌がった重綱はお寺に逃げ込んだとさ。

 
・真田幸村の娘・阿梅を後室に迎えている。
 *一説によると大阪の陣の折、この将ならばと、片倉の陣に矢文を送り婚姻の儀を申し入れたと言われている。

・はじめ重綱と名乗るが、正保2年(1645)将軍家光の嗣子・家綱の諱(いみな)を避け、重長と改名した。
 *諱(いみな)・・・死んだ人の名の一部が入っていることを忌み、避けること。

・烏帽子親は成実。


□伊達 成実
■正式名・幼名  伊達 藤五郎 成実 ・ 時宗丸
■生没  1568年(永禄11年)〜1646年(正保3年) 享年79歳
■辞世の句   古来より稀なる年にここのつの 余るも夢の中にぞありける
■生い立ちや逸話色々 ・父は伊達実元、母は伊達晴宗(実元の兄)の娘。
 *叔父と姪で婚姻したということになるが、実元と晴宗は異母兄弟のため当時としては問題なかった。

・上記のことから政宗の父・輝宗にとって成実は父方から見ると自身の従兄弟にあたり、母方辿ると甥にあたる。政宗にとっては従兄弟であり、大叔父にあたる。

・“智”の片倉小十郎に対して、その勇猛果敢な戦い振りから“武”の伊達成実と呼ばれた。その兜には“決して後ろへは退かない”ということから百足の前立があしらわれている。

・1595年文禄の役(朝鮮出兵)後、高野山へ出奔。
・1600年関ヶ原の戦いで上杉家から法外な恩賞で勧誘を受けるが拒否。このとき「本来ならば家臣筋の家に仕えるつもりはない※」と言って断ったと伝わる。
 
以前に越後上杉氏の最後の当主であった上杉定実と成実の父・伊達実元の養子縁組の話があったが、伊達家中の反対(天文の乱)によって破談している。もし、この縁組が実現していれば、成実はその後を継承して越後上杉家の当主になり、上杉景勝は上杉宗家を継承できずに越後上杉家の守護代長尾氏の当主として成実に仕えていた筈である。このため、成実は景勝を「家臣筋の家」と呼んだ。

 ・1600年政宗の下に帰参し、亘理に領地を賜る。仙台藩においてその家格は一門第二席。

・帰参後は仙台藩のために尽力した。
 
*政宗の死去した翌年、藩内は洪水のため収穫が激減し飢饉になった際、幕府から銀五千貫を拝借。そのお礼言上のため二代藩主・忠宗の名代として上京。その宴の席で奥羽における軍談を所望され、人取り橋の合戦の武勇談を語り、襖を隔てこっそりと聞いていた三代将軍・家光は感銘を受けたと言う。

・伊達家周辺と自身のことを『成実記』『政宗記』に書き残した。


□片倉 喜多
■正式名  片倉 喜多
■生没  不明
■生い立ちや逸話色々 ・その才媛ぶりから政宗の養育係として選ばれる。

・喜多は小十郎の異父姉であると共に、鬼庭綱元の異母姉でもある。
 *喜多は鬼庭良直(左月斎)の娘として生まれたが、両親は後に離縁。左月斎と再婚相手との間に生まれたのが、異母弟の綱元となる。
 良直との離縁後、喜多の母は片倉家へ嫁ぎ、そこで異父弟の小十郎が生まれた。



□鬼庭 綱元(茂庭 綱元・延元)
■正式名  ?
■生没  1549年(天文18年)〜1640年(寛永17年) 享年92歳
■生い立ちや逸話色々 ・父は鬼庭良直(左月斎)。片倉喜多は異母姉。

・太閤・秀吉にその智勇を気に入られ、命により元の“茂庭”姓に戻る。ついでに秀吉の愛妾・お種の方を室として下賜された。
1695年このことがきっかけで一時伊達家から出奔(追放?)。その後1697年帰参。

・その行政手腕の高さを買われ、三十八歳で奉行に任じられる。後年、政宗の庶長子・秀宗が伊予宇和島に移封されるとその補佐と藩政の指導を託された。

・先祖代々長命の家系と言われていたらしい。本人も92歳にて死去。


□伊達 晴宗
■正式名  伊達 藤次郎 晴宗 
■生没  1519年(永正16年)〜1578年(天正5年) 享年60歳
■生い立ちその他 ・伊達家第十五代当主。伊達稙宗の長男。
 正室は岩城重隆の娘・久保姫。岩城親隆・伊達輝宗・留守政景・石川昭光・国分盛重・杉目直宗の父。伊達政宗の祖父。


・1542年、父・稙宗が勢力拡大のため弟・実元を越後守護の上杉家へ養子に出そうとするが、有力な家臣団100名をつけようとしたことに反発。これがきっかけで父子関係は悪化。このお家騒動が天文の乱に発展する。
その後、相馬氏、芦名氏の仲介の元、稙宗を幽閉し自身が家督を継ぐことで決着。

・1534年に交わした義父・岩城重隆との約束に従って嫡男の親隆を重隆の養子としていた。その代わりに次男の輝宗を跡継ぎとしていたが、晩年に入って輝宗との対立が深まる。自身体験した内乱を避けるため、輝宗に家督を譲り隠居。

・1577年陸奥国信夫の杉目城で死去。
晩年杉目城で宴を催した際、孫の梵天丸(政宗、10歳前後?)が和歌を披露したという。


□伊達 実元
■正式名  伊達 藤五郎 実元 ・ 時宗丸
■生没  1527年(大永7年)〜1587年(天正15年) 享年61歳
■生い立ちその他 ・伊達稙宗の三男。正室は兄・晴宗の娘。嫡男・成実。
 
・越後守護の上杉家への養子縁組の話があったが、兄・晴宗の反対により頓挫。天文の乱のときは父に従い奮戦する。乱終息後、父は幽閉、自身は晴宗に仕えた。
その後も輝宗、政宗と代々に仕えた。

・1584年、成実に家督を譲り、八丁目城に隠居。


□伊達 稙宗

そのうち・・・