*戦国・江戸時代豆知識*

◎出自について◎
源氏系・平氏系について
□代表的な武士の家系『源氏』系・『平氏』系

その名のとおり源氏系は清和源氏を祖とする家系。平氏系は桓武平氏を祖とする家系です。
冠する清和や桓武とは天皇の名で、その子や孫を皇族に列するのではなく、臣下させるために源姓や平姓を与えました。時代を下ると各天皇もそれぞれの子や孫たちを臣下したため、他にも嵯峨源氏等も出てきます。

さて、では何故臣下に下らせたのかというと早い話が金です(笑)
天皇は自分の血を引き継ぐ跡継ぎを作らねばなりません。一夫一婦制でももちろん良かったのですが、当時の子どもの成人率は今とは比べものにならないくらい低く、一人の女性の出産では十分とはいえなかった。そこで後宮を作って多くの女性を召したわけです。
しかしこれはまた同時に弊害を生みました。多すぎる子どもは天皇の子として宮という身分高い皇族になります。その宮家の費用も朝廷から出すとなると、子どもが増えるほど出費も増えます。
そこで跡継ぎ候補を数人残し、あとは臣下に下らせ朝廷内の適当な官職に付かせるわけです。その際地方の荘園等を宛がったりして「あとは自分たちで暮らすのですよ」というわけです。
そうして分かれた人々は代替わりする際にうまく中央の官職につけなくなったりして、地方の荘園を頼ったり、受領と呼ばれる地方官に任命され都を去ります。そんな人々がその土地に根付き、各地方の戦国大名の祖となったと考えられているそうです。

□伊達家は藤原氏を祖とする藤原系

伊達家は藤原系、その中でも藤原北家の流れを汲むといわれています。これは遡ると藤原不比等あたりまで行ってしまうという、なかなか半端じゃない家系です(笑
伊達家は魚名流山陰中納言の後裔であるといわれていました。
それが源頼朝が奥州征伐の際、藤原山陰の子孫・朝宗が四人の子を従軍させ、その戦功が認められ伊達郡を賜った事からその後は伊達姓を名乗ったといわれています。
 


◎旧暦と時刻◎
■旧暦について
□旧暦のこと

当時は主に天体観測によって暦は算出されていました。そして長い歴史の中で新しい技術や算出方法が見つかると以下のように改定されていました。

・元嘉暦(690〜?)
・儀鳳暦(697〜763)
・大衍暦(764〜856)
・五紀暦(857〜861)
・宣明暦(862〜1683)
・貞享暦(1684〜1754)
・宝暦暦(1755〜1797)
・寛政暦(1798〜1843)
・天保暦(1844〜1872)

上記の記録からするとまーくんたちの時代は「宣明暦(せんみょうれき)」が使われていたことになります。
この暦は約800年に渡って使われましたが、実は天正年間になる頃には実際の季節とのズレが一ヶ月にもなってしまったそうです。
天正年間といえば戦国時代真っ只中!
実はこの当時、関東地方には独特の暦・三島暦なるものが発生しており、中央である京の朝廷と東国でも一ヶ月のズレが生じていたらしいです。そこで三島暦を使っていた織田信長と朝廷の間にも争いが生じたそうですが、途中本能寺の変で信長が死に、結局うやむやのまま江戸時代初期まで宣明暦が使われてたのだとか。
元々暦は朝廷の陰陽寮において司られており、古来より占い事などとともに秘事でした。暦と権力は切っても切れないものだったといえます。


■時刻の表し方
□不定時法

当時は昼と夜を日の出と日の入りによって分け、それぞれ六等分していました。そうなると当然夏と冬で日の入り日の出も変わってきます。
現在は一時間は六十分と正確に決まっていますが、当時夏の昼の一刻(いっとき)は長く、夜の一刻は短くなります。反対に冬の昼の一刻は短く、夜は長くなります。このように一刻は約二時間といっても季節で長さが違い、自然に合わせた生活時間だったといえます。これを不定時法と呼びます。

□時間軸
大まかですが、下記に時間軸のグラフを作ってみました。

※明け・暮れは季節ごとの日の出・日の入りを基準とする。
※一刻は約二時間。半刻は約一時間。
※現在の「おやつ」の時間である午後の三時は、「昼八つ」の「お八つ」からきてるわけですね。