「そろそろか・・・」
 
 小十郎はそう呟くと、傾きかけた陽の光に目を細めながら立ち上がった。

 政宗が閑所に篭って一刻ほど経つ。
 閑所は今で言うトイレを指すが、この時代その用途は少々異なる。
 広さは京間の二畳分ほどもあり、書棚もつけられ、墨に硯なども用意され書状も書ける。つまり書斎のようなものだ。
 政宗は必ず日に一回以上はこの閑所に篭る。
 そこで大好きな煙草をふかし、書状を書いたり、思索に耽ったりして過ごすことを常としていた。

 城という場所は、領主の家であると共に仕事場でもある。
 政務を取り仕切る“表”や妻子たちと住み暮らす“奥”という、一応のプライベートは分けられてはいた。しかし表に出れば多くの家臣たちの前に立ち、奥に引っ込んでも身の回りを世話する侍女などが居り、周りにはいつも他人の目があった。
 余程の事柄でない限りは取り次ぎも拒み、篭るその場所はつまり、政宗にとって唯一他人を締め出し、一人きりになれる場所だった。



 「殿、小十郎にございます」

 「・・・・・・おう」

 控え目な掛け声にたっぷりと間を置いた返事が返る。
 静かに滑った障子の向こうに現れたのは、茶碗を載せた盆を手にした小十郎の姿ひとり。
 すでに重臣として揺るがない地位を築いている小十郎だったが、この閑所に篭る政宗の元へやって来るときは必ずこうして自ら茶を運ぶ。
 折り目正しい小十郎の声が掛かればそろそろ夕餉の時間で、この閑所から表に出る時間だった。だからこうして茶を持ってやって来る小十郎を、政宗も時計代わりにしていた。

 「・・・何か変わった動きはあったか?」

 「いえ、特段には・・二、三の書状が届きまいたが、それは明日でもよろしいものかと」

 「そうか・・・」

 そんな会話を交わしながら、政宗は小十郎の運んできた茶に口をつける。
 袴も着けず、帯も解き、くつろいだ着流し姿の政宗は、気だるげに脇息に持たれている。その姿はいつも精気に溢れ、快活な同じ人物とは思えないほどだ。





 幼い頃は傅役として小十郎は誰よりも近くにあった───その実の父母よりも。
 それは成人した今も変わらない。
 名もない神職の家柄の出の自分が運良く取り立てられ、今では独眼竜の片腕とまで言われるようになった。時には軍師として、また時には兄のように共にあった。

 しかし家督を継ぎ、多くの家臣や領民を背負うようになった政宗を、小十郎は不意に遠く感じることがある。





 独裁的な領主が多い中、政宗はよく家臣たちの意見を聞く。時に独断的な裁量を下すこともあるが、それはよくよく考え練られたもので、話を聞けば非の打ち所もない。そして政宗の言う通りに実行すれば、面白いように事が運ぶさまも、実際もう何度も目にしてきた。
 そんなとき、この知略に優れた男が自分たちの主であることを、吹聴して回りたいほど誇らしい。それは他の家臣も同じだろう。
 しかし何時からか、小十郎はその素晴らしい知性の多くを計略に裂くことにやりきれなさも感じるようになった。





 領主になった政宗は───孤独だった。



 民のため、家臣のため、天下のため、そして己のために上を目指すことを、政宗自身は厭うてなどいないだろう。むしろ己が置かれた領主という立場、戦乱の世に生まれた武将という宿命を何の衒いもなく受け入れ、真っ当しようとしてる。

 親兄弟といった血縁でもなく、ましてや友でもない。
 覆しようもない“臣下”という立場の自分に出来ることは、多くない。そのことが歯痒いが、何よりも政宗が望まなければ、ろくに与えることさえできないのだ。
 
 
 カンッと高い音に小十郎は我に返る。
 政宗が愛用の煙管を打ち付け、雁首から吸殻を落とした音。
 これはこの“砦”を出る合図だ。

 「さて、ゆくか。小十郎、手伝え」

 「はっ・・・」

 政宗が立ち上がると、小十郎はいつものように着替えを手伝う。
 襟元を調え、帯も締め直し、袴を着けていくと、政宗の顔は先ほどまでの気だるさが嘘のように精気に満ち、厳しいものに変わっていく。そうしてこの部屋から一歩外に出れば、また野心に溢れ自信に満ちた“奥州の独眼竜”に戻るのだ。
 
 「小十郎、またひとつ妙案を思いついたぞ!」

 閑所を出て廊下を渡る政宗は、如何にも愉快そうに後に続く小十郎に告げる。

 「それは重畳。ではさっそく明日の評定にかけましょう」

 あとに続く小十郎は、その多くを背負う背に向かって答えた。



 “ただ傍らに居て、その手を伸ばされた時に掴めること”

 それだけが自分に出来るただひとつのことなのかもしれないと、小十郎は前をゆく政宗の後姿を見つめながらそんなふうに思った。







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