「・・・小十郎か」

 自室で書状を認めていた政宗は、ひとり呟いた。
 しばし筆を走らせる手を止め、聞き入る。柔らかく流れ始めた笛の音は小さく、美しい旋律も時折吹く風や虫の音にかき消されることが 惜しい。庭では虫たちがその命をさらに縮めるように、薄羽をさかんに震わせている。いじらしいことだが、今は笛の音を聞きたいと政宗は思った。

 つい先日、大崎攻略から始まった転戦から帰り、気が付けば随分と秋も深まっていた。
 大崎、郡山と南を駈けずり回った戦は、それなりの成果を納めたが、奥州の統一にはあと少し届かない。
 少し前からは西からの書状がひっきりなしに届くようになった。いまや天下の殆どをその手中に納め、関白となった秀吉からはしきりに 上洛を促されている。しかも近々東国へもその触手を伸ばすことは必定。東海には北条親子が立ち塞がっているが、そこへの出陣も時間の問題だろうと、間諜からの報告から伺われた。
 政宗は刀を掴み立ち上がると、草履をつっかけて宵闇の中へ紛れた。





 小十郎は縁側に座し、“潮風”を吹きながらうっとりと宙を見上げていた。
 仲秋の大気は冷たく冴え、天空の月が晧晧と遠く見える稜線を浮かび上がらせている。秋の乾いた気候に笛の音も軽く、高音もいつもよ り美しく響くようだ。

 好い月と虫の音に誘われて、小十郎は愛笛を持ち出した。
 構えただけでしっくりと指に馴染むその笛は、政宗の父である輝宗の小姓をしている折に下賜された物だ。

 元々がその笛の腕を買われて輝宗に用いられた小十郎だったが、傍に置けば笛だけでなく学問や剣術においても非凡ならぬものがあった 。しかしそんな才能をひけらかすこともなく、常に一歩引いた小十郎の態度に、輝宗はしきりと感心した。輝宗はそんな小十郎を、自身の 大事な嫡子である政宗の傅役に取り立てることを決めた。
 この異例の大抜擢は周囲をたいそう驚かせた。
 家柄も取り立ててよくもなく、身分も低い二十歳にも満たぬ青年を、将来の伊達家を担う子の傍に置くのだから、当然と言えば当然のことだろう。
 当初、小十郎自身もこのあまりに大きな役目と周囲のことを考え、辞退した。しかし輝宗はそんな小十郎を前にして云った。

 『吾子が成人する頃には、また今とは違う時代になっておろう。そのときに古き時代と人が邪魔になってはいかんのだ・・梵天丸とそな たたち若人の足枷になるようなものは、わしがすべて引き受ける。じゃから頼む、小十郎』
 
 そう語る輝宗は、臣下である自分に躊躇いもなく頭を下げた。

 次男として生まれた己は、家を継ぐことは叶わない。母の違う兄と父の違う姉。仲は良かったが、再嫁してきた母の子として、どこか身の 置き所がなかった。
 そんな自分を見出し、厚い恩情をもって傍に置いてくれた。次期統領となる吾子を任せるとまで仰せになる。
 これほどまでに大きな心に、この命を受ける以外、どうして報いることができるだろう。

 『大任、身命を賭して務めさせて頂きまする』

 小十郎は謹んで答えた。



 「・・・誰か?」

 小十郎は笛から口を離すと、傍らの脇差しを掴みながら誰何した。
 何時如何なるときも、小十郎は刀を肌身から離さなかった。
 君主の命を狙う内外の敵から守るため。そしてもちろん自身や家族の身を守るため。
 この時代と状況が、そうさせていた。
 
 近づく気配に、うるさいほどだった虫の音もいつの間にか止んでいる。

 「・・わしじゃ、小十郎」

 月明かりに浮かび上がるのは、主君の姿。

 「殿!これはご無礼を。・・如何なされました?何ぞ火急の用でも?」

 相変わらず忠義の厚い家臣は居住まいを正すと、そんなふうに云う。

 「そうではない。おまえの笛が聞きたくなったのだ。それと左門はいかがした?もう寝てしまったか?」

 今年四歳になる小十郎の嫡子である左門は、利発で可愛らしく城下でも評判だ。政宗はそんな左門を随分と可愛がっていた。あと数年したら小姓に取り立てられることも決まっている。

 「はい、もうこの時刻ですので」

 「それも、そうだな」

 そう残念そうに呟くと、小十郎が差し出した円座に慣れたように腰掛けた。

 「・・遣いをいただければ参上いたしましたものを、お一人でこのようなところへ・・・しかもまた、裏口から参られたので?」

 呆れと多少の非難を込めた小十郎の言葉にも、政宗はけろりと答えた。

 「おう。表からでは気を遣うであろうが」

 表だろうが裏だろうが、主君が来るのだ。気を遣うことには変わりないのだが、と小十郎はこっそり思う。

 政宗は大抵の場合、こうしてこっそりと城を抜け出し、裏口から入って来ては小十郎を驚かせることを好んだ。しかも供も連れず、一人でやってくる。確かに表から来れば、正式な訪問となる。そうなるとそれなりの手順も踏まねばならないが、お忍びということであれば、そういう面倒も省く事ができる。確かに、政宗なりの気遣いなのだろう。
 しかし、いくら城門から目と鼻の先の位置にある屋敷とはいえ、一国の城主にとって一人歩きが危険なことには変わりない。小十郎はとうとうと諭すのだが、政宗は何度云っても聞かない。しかし一応の自覚はあるらしく、帯刀もしてくる。そんな政宗に小十郎も、最近はあまりうるさいことを云わないようにしていた。
 それというのも、こうしてお忍びでやって来ることが、政宗にとってある種の気分転換になっているらしいと、気づいたからだ。
 当主として常に人に見られ、一人になる機会も少ない。一人での外出なども、まずありえない。生まれた時からのこととはいえ、やはり窮屈なことだろう。
 領主としては戦に明け暮れ、日々続く政務。そして私人としては、実母との目に見えぬ壁に苛まれる・・・。そうした政宗の心情は、小十郎とて察して余りある。それが自分の屋敷に来て酒を飲んだり、笛を所望することで少しでも癒されるなら、そう強くも出られない。

 小十郎は妻の蔦を呼ぶと、酒と肴の仕度を云い付けた。やって来た蔦は、縁側に腰掛ける政宗の姿を目にしても、そう驚く様子もなかった。

 「ようお出でくだされました」

 「蔦、邪魔をしておる。今年も菊が見事じゃの。そなたの丹精がよいのだな」

 三人の眼前には今が盛りと咲き乱れる菊の花が、淡い月明かりと灯明に映し出されている。

 「お褒めに預かり、恐縮にござりまする。・・・あの、もしよろしければ、お持ちになられますか?」

 「おお、それはいい。愛にやれば喜ぶ。是非、貰うてゆこう」

 「では、お帰りまでにご用意を・・・失礼致します」
 
 政宗の言葉に、蔦はその涼しげな目元を細め答えるとすぐに辞した。



 十年前、蔦は菊の苗とともに小十郎の元に嫁入りした。
 実家である矢内氏の屋敷で育てていたというそれは、自分の生まれたときに植えられたものだと、蔦は云った。

 『・・・お庭の隅で結構でございます。これらを植えるのを、お許しいただけませんでしょうか?』

 遠慮がちにそう伺いを立てる蔦に、

 『そなたはもう片倉家の女主ぞ、なんの遠慮が要るのだ?好きなように致せばよい・・・わしも菊の花は好きだ』

 小十郎の答えに蔦は嫁いで初めて、心からの笑みを見せた。
 それからわずか数株だった菊も少しずつ増えていった。菊だけでなく植物全般が好きらしい蔦は、ほったらかしだった庭木もよく手入れした。戦から帰るたびに美しくなっていく庭を、小十郎もいつの間にか楽しみに思うようになっていた。そうして手の空いたときには蔦に云われながら、庭仕事も手伝った。長く家を空けると庭のことを思い、政宗が遠征先でしきりに自身が耕す畑のことを気にする気持ちも判 った。



 そう刻も掛からず、酒と肴が運ばれてきた。蔦は最初の酌だけするとすぐに下がる。これもいつものことで、政宗も過分なもてなしを嫌うので叱責を受けることもない。堅苦しい事の多い城内とは違い、政宗は肩肘を張らずに酒を飲み、肴を口にしたいのだ。
 そうして二人して、しばし他愛ないことを話しながら飲んだ。

 「・・おお、忘れておった。そちの笛を聞きに来たのだった」

 「左様でございました・・何がよろしいでしょうか?」

 「うーむ・・・先ほど吹いていた曲。あれがいい」

 「畏まりました。では・・・」

 ふたたび、今度は風にも虫の音にも消されない美しい音色が流れる。

 口には酒、目には月と菊花、耳には潮風の音。これ以上望むべくもない、至福。

 政宗はしばしうっとりと目を閉じた。





 半刻ほど過ごすと、政宗は暇を告げた。
 約束通り、蔦は菊を紙に包んで持ってきた。

 「もう水切りも済んでおりますゆえ、このまま生けられまする」

 「それは有難い。手間をかせさせたな」

 「とんでもございません。また是非、お出でくださりませ」

 蔦は笑顔で見送った。

 帰りは小十郎が館の門まで送っていくのも、このお忍びの決まりごとのひとつになっていた。

 「・・・小十郎は、ほんによい嫁御を貰うたな」

 短い道すがら、政宗はぽつりと呟いた。

 「は、誠に。わたくしめもそう思いまする」

 「フン!惚気おって・・・」

 「はははっ!失礼を。・・・しかし殿がお出でくださると、蔦も喜びます。またどうぞ」

 「なんじゃ。前は来るな来るなと、五月蝿くゆうておったくせに・・・それに本当は、蔦やお前も、その・・迷惑ではないのか・・?」

 俯きがちに云う政宗に、小十郎は胸を突かれた思いだった。

 いつもふらりと気ままにやって来るふうで、身の危険を説くことを煩わしげに聞いていたのに。

 だが本当は───もっと様々な思いを抱きながら、そっと裏口から忍んで来ていたのかもしれない。

 「・・・殿。蔦も申しましたとおり、どうぞ遠慮のうお出でください。左門も喜びます。わたくしも・・嬉しいのですよ」

 「・・・本当か?」

 「はい・・・ただ」

 「ただ?」

 「できれば、供の一人くらいはお付けして欲しいとは、思いますが」

 「なんじゃ。やはり一人では来るな、ということではないか」

 「そこは家臣として譲れませぬゆえ」

 拗ねたようにいう政宗に、小十郎は少しふざけたように答えた。

 「そうか・・・まあ、また寄らせて貰おう。次は左門の起きているときがよいな・・」

 そう嬉しそうに云う政宗は、小十郎の真情を汲み取ったようだった。
 館の門の前に着くと、小十郎が持っていた菊の花束を渡すよう、政宗は手を差し出した。

 「お部屋まで・・・」

 「ここでよい。早く帰ってやれ・・・蔦に菊の礼を、よう申してくれ」

 「はい。では、お休みなさいませ」

 「ああ」

 すっかり躊躇いを消した政宗は、大きな菊の花束を抱えて門をくぐっていった。








 今回初登場、蔦さんは小十郎の奥方です。
 史実では小十郎の室は矢内氏。蔦という名は大河で使っていたので。もちろん政小の二人の事は了承済み、ということでひとつお願いしたく・・・(汗
 今回はお題クリアは微妙・・・





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