*ご注意*
 作中、息子・小十郎重綱との混乱を避けるため、初代・小十郎は『景綱』の名で統一してます













 秋も深まる頃、父・景綱の四十九日が済むとすぐに重綱──いまは父に代わり、皆に小十郎と呼ばれる──は仙臺へやってきた。城下の屋敷に入り、休むこともそこそこに城に上がると、政宗の元へ顔を見せた。

 「長らくの御無沙汰、申し訳ございませんでした。また父・景綱の葬儀の際には御悔やみと御香典をかたじけなく、殿のご恩情は母ともども誠に有り難く・・亡き父に代わりまして、この小十郎ますますの忠勤に励みたく存じ奉りまする」

 小十郎の丁寧で生真面目な挨拶に、(やはりあの景綱の子よ)と政宗は目を細めた。

 「うむ、大儀であった。・・・もう落ち着いたか?」

 「はい。喪中の間は母と共に遺品の整理などを致しまして、ようやく・・・それでその際、斯様なものを見つけまいて参上致した次第です。御免」

 そう云って膝でにじり寄った小十郎は、美しい菊の花の蒔絵が施された文箱を政宗の前に差し出した。
 
 「これは・・・?」

 「は。父の書院を整理しておりましたら出て参りました。中はすべて殿からの書状のようです」

 小十郎の言葉に政宗は蓋を開け、検分する。確かに見覚えのある自分の文字ばかりのようだ。

 「・・ふむ、なるほど。確かにわしの文ばかりのようだの。しかし、これはすべて景綱にやったものだ。片倉家にてどのように扱おうと構わぬぞ?」

 政宗は小十郎が何故自分に持ってきたのか、理解出来かねた。

 「は、某も初めはお持ちするつもりはございませんでした。殿からの御文です。片倉家の大事な宝として子々孫々まで伝えようと思いましたが、しかし父の書付を見つけましたので・・・」

 「はは!わしの文など宝にすることはないが・・しかし、景綱の書付とな?」

 「はい。そこには“自分の死後、この文箱の中身はすべて燃やせ”とございました」

 「すべて燃やせと、な。・・それならば、何故燃やしてしまわなんだ?」

 景綱の遺言とも取れる書付に、この律儀な息子が従わないことを政宗は不思議に思った。

 「この文箱は父が生前大事にしていた物でございます。某が幼少の頃、これに悪戯しようものなら、それはもう叱られ申したもので・・・」

 「ほう、あの備中ががそれほど怒ったか?」

 政宗は面白そうに問いながらも、いつもは穏やかな男だったが、怒ると確かに怖かったと思い出し、苦笑した。

 「はい、それはもう!・・まあ、そのようなわけで、父がそれほどまで大事にしていた物を焼き捨てるには忍びなく、かと申しまして、某が持っているのも叱られたことを思い出して何やら落ち着きませぬ。それで送り主である殿に、形見代わりにお持ちいただけたら、と。もちろん、殿のほうで要らぬということであれば、煮るなり焼くなり頂きまして構いませぬゆえ・・・どうか貰っては頂けませぬでしょうか?」

 「なるほどのう・・・」

 そう呟きながら手元の紙の束をしばし眺めると、政宗は小十郎の願いを聞き入れた。








 午後、閑所に篭った政宗は、さきほど小十郎が持ってきた景綱の書状を改めて検分していた。
 きちんと整理されていたそれは、上から下へ順に、新しい物から古い物が重ねられていた。見ていくうちに判ったのは、基本的に公な書状の類は含まれてはおらず、どうやらこの文箱の中の物はすべて私的なものばかりのようだった。

 一番上には病気見舞いに送った最後の文があった。
 もうこの頃には随分具合も悪くなっていたであろうに、景綱は律儀に返事を寄越した。さすがに祐筆に書かせたものだったようだが、“今日は気分もいい”などと書かれてる。しかし文の最後の、自筆の震える花押に、胸が苦しくなったことを思い出す。

 束の真ん中あたりには、故・太閤の命により朝鮮に渡った折の書付があった。

 “日本に帰ったら酒を思う存分飲み、生鰯が食いたい”

 兵糧の乏しかった折に書いた戯言のような書付だ。

 「なんと!・・ハハッ!こんなものまで取っておくとは・・」

 政宗は笑いながらひとりごちた。

 残りが少なくなってくると、ほとんど日を置かずに書かれたものが多い。小田原へ行く前の忙しい頃のもののようだった。
 そんな中での文は、一見するとそうとは判らないような内容だったが、それは景綱へ宛てた恋文のようなものばかりだった。
 その頃は何かにつけては景綱を呼びつけて、この国の行く末を話し合いながらも、その身体を求めた。そんな傍若無人な主君に、あの優しい男はきちんと向き合ってくれた。
 政宗は力強く書かれた己の鶺鴒の花押を眺め、強気で傲慢だった若い自分は、その反面ひどく不安だったのだろうと、今さらながらに思った。

 そんなふうに昔を思い返しながら、惜しむようにゆっくりと、一枚一枚、丹念に読んでいった。
 そうして最後の一枚。
 そこには漢詩が書かれていたが、平仮名が多く、何とも拙い手蹟──おそらくこれは、手習いで書いたものだ。
 まだ“梵天丸”と呼ばれていた頃に、そして景綱がまだ“小十郎”と呼ばれていた傅役の頃の。

 「こんなものまで・・・」

 四十年も前のものを
 子どもの書いた拙いものを

 ───このように大事に取っておいたのか

 政宗は、己の拙い文字の刻まれた紙をくしゃりと握り締めた。そして、もう充分に流し切ったはずの涙を隠すように、その顔を覆った。











 たぶん景綱は恋文なんかは焼き捨てたと思うんですが(汗
 でもまーくんのことを大事に、特別に思っていただんだということ、後々知らしめたりするのもいいかと妄想。これは一種のまーくんイジメ・・・?(笑)