初めて上洛してからもう十年が経とうとしていた。
 相も変わらず、奥州と京の伏見屋敷とを往復する暮らしが続いている。

 京の屋敷にいる間は天下の行く末に気を配り、岩出山に帰ると領内の治世に明け暮れるという日々。
 京では天下の政の他にも、茶の湯や能の舞の手習いにも忙しい政宗だ。他にも楽師たちによる太鼓や鼓の稽古、懇意になった公家たちから書や歌の添削を乞うのも余念がない。正月行事に連歌の会が恒例であったりと、元々が田舎にありながら文化水準の高い伊達家であったから、政宗自身楽しんでいたことであった。
 そんな京での雅やかな暮らしも悪くはなかったが、それでも生まれ育った地というものは別の意味で格別だ。なによりもその地の物を食し、その空気に触れるとほっとした。
 妻子たちは殆どが京の屋敷に人質として留め置かれたままだったから、この岩出山にいる間長く時を過ごすのはむさ苦しい男ばかり。しかしこれもまた家臣たちとの関係を密するには好い機会であった。

 今日も夕餉の相伴は小十郎、綱元、そして重信が召された。しかしこの地に妻子が住まう綱元と重信は早々に辞去し、結局最後まで残ったのは、やはり館に妻子の居ない小十郎だけだった。
 小十郎も京に妻子を伴っていた。先年その歳を理由に退いた喜多の後を継いで、愛姫には小十郎の妻女が仕えていたからだ。
 
 酒を酌み交わしながらつらつらと話をしていると、政宗はぐいと飲み干した杯を置いた。そして急に立ち上がると、開け放したままの廊下に出て行った。

 「・・わしは、変わったか?」

 そう背を向けたまま問う主の声には幾分の自嘲が込められていた。

 「いいえ」

 即座に否定した小十郎を肩越しに軽く見遣った政宗は、今度は本当に自嘲の笑みを零した。

 「巷では“奥州の人食い虎も牙を抜かれた”と噂されているそうな・・何、構わぬ。そちも正直に申してみよ」

 (この弱気は一体どうしたことか・・?・・・ああ、そうか。きっと・・・)

 成実どのの事を気に掛けておいでなのだ───

 重ねて問うてくる主に、そう直感した小十郎は眉を寄せた。

 自分同様、政宗が幼い頃から仕えていた成実が突然出奔して、もう三年にもなる。
 家臣の重用の仕方や朝鮮征伐の折の俸禄の不満、そして故太閤による小十郎や綱元など忠臣たちの勧誘。そんなことをされて怒らない政宗への不満──そんな理由が口々に取り沙汰されたが、本当のところは判らない。
 政宗にとってひと際信頼していた成実の出奔は、まさに青天の霹靂であったろう。その証拠にすぐに処分を叫ぶ者達を抑え、四方八方手を尽くし探させた。しかしそれも半年が限度だった。
 主君に無断で姿を消した城主の城を、いつまでもそのままにはして置けない。政宗は苦々しい思いで角田城の召し上げを決め、所領内の家臣・屋代景頼に受け取りの命じた。

 そしてそんな政宗に追い討ちを掛けるように悲劇が起こった。
 成実を信じる妻子と家臣たちと屋代は押し問答の末、決裂。篭城した妻子以下家臣たちと一戦交えた挙句、妻子たちは自害し、家臣たちは城に火を放つ結果となってしまったのだ。
 この知らせを聞いたときの政宗の悲しみと自身に対する憤りは凄まじかった。

 『誰が妻子や家臣の命まで奪えと申したのだっ!?成実に・・・一生掛かっても詫びきれぬ・・っ!』

 ───小十郎、わしはどうしたらよいのだ・・・っ!?

 そう言って涙を流しながら途方に暮れる政宗の姿が、今でも小十郎の目に焼き付いていた。
 小十郎は持っていた杯を置くと、律儀にも体ごと向きを変え背を正した。

 「殿は何一つお変わりになどなってござらん。確かに今や昔のように隙あら噛み付くようなお姿はお見せになることはありませぬ。しかしながらそれは、牙を抜かれたということではありますまい」

 ぴしゃりという小十郎に、今度は政宗が体の向きを変えた。先を促すように見つめてくる政宗に、小十郎は『恐れながら・・・』と話を継いだ。

 「恐れながら、先ほどお変わりになってはいないと申し上げまいたが、少し違うやも知れませぬ・・殿はいつも変わり続けられた。そうやってそのとき出来る最善を尽くして参られた。つまり、そう・・変わりながら変わらない筋をひとつ、きちんとお持ちなのです」

 小十郎は右の宙を見据えながらそんなふうに言う。これは考えながら話すときの小十郎の癖だ。
 政宗は小十郎の言葉にふっと息を吐き出すように笑うと、肩の力を抜いた。

 「わしは、このままで良いのだな・・」

 「御意、これからも心の命ずるままになさればよろしいので・・もし不都合あらば、われ等がお諌め申し上げる。そのための家臣どもですぞ。ははは・・」

 笑う小十郎の口元には深い皺が刻まれた。



 二十年以上、小十郎は政宗とともに過ごしてきた。
 故豊太閤ほうたいこうに大名に取り立てると言われたときも、その後の様々な好条件の引抜にも小十郎は一切応じなかった。しかし様々な誘いを断ったのは、幼い頃からともにあったという情だけではない。

 政宗がひとりで馬に乗れるようになると、成実とともによく野駆けの供をした。気に入りの小高い丘に立ち、山向こうを良く眺める姿を良く覚えている。
 同じ頃、政宗は各地を旅する修行僧たちを招いては、京や世情の様子を熱心に聞くようになった。
 遠く山を臨んでいたとばかり思っていた大きく見開かれた隻眼は、そのときすでに天下を見据えていたのだ。
 二十歳にもならない政宗が家督を相続し、その後わずか四年余りで街道筋を制した。そんな類稀な才を持ちながらも、幾度かの失態も犯した。成実のこともその一つに数えてもいいだろう。
 しかしその度に同じ轍を踏まないように成長し続けている。

 素早い決断力と強引さで有無を言わせぬ執政も取った。
 しかし身分の上下無く有能な者たちを召し上げ、そんな家臣たちの意見を求めることも怠らなかった。
 無粋を嫌い、花も実も有る裁量に心を砕く。

 こんな人物にはもう二度とめぐり逢うことはないだろうと、小十郎はしみじみ思う。

 こんな主君に仕えられたことは、何事にも代え難い。
 それは成実とて同じ思いのはずだ。それゆえに時にぶつかり合い、それでもともに命を懸け戦ってきたのだから。
 
 政宗は未だ秘密裏に成実の探索を続けていた。
 なかなか良い知らせが届かないことが、そしてこの思い出多い地に戻って来ていることが、その心を不安定にさせるいるのだろう。
 しかし小十郎は確信していた。

 きっと成実は見つかる。
 そして必ずここへ帰って来る。


 何千もの家臣を持ち、何万もの領民を守る領主としての務めは難儀で、その肩の荷は重い。
 その役目を変わってやることはできないし、そう大層な事もできないが。
 しかし少しでもその肩の荷が軽くなるのなら、この身を惜しみなどしない。

 だから、多くの者のしるべとなる貴方は変わってはならない。






 

 成実出奔を絡めた小噺です。
 しげの家出はまーくんにとって相当な衝撃ではなかったのかなーと。
 「くそー、ばか藤五!」(笑)とか言って怒りながらも、帰ってくるのを今か今かと待ってたりするといいな。

 ちょっと真面目な話。
 史実的には角田城召し上げの際の成実の妻子の有無は不明です。
 ここで亡くなったのが妥当という説と、この時点では妻子自体いなかったのではないか(いたという記述が見つからないらしい)という説があるので、拙宅ではここで亡くなった説を。
 後年は室も貰ったようですが、男子は夭折していなかったのでまーくんの九男・宗実を養子として迎えています。
 大河では帰参後、政宗が角田城召し上げの詫びをしたときに成実が「侘び代わりにそのうち殿の子をひとりくれ!」とか言ったり。
小十郎が死んだ知らせを受けたときに、帰参時の話を覚えていた政宗が「うちの九男どうよ?」とか話してて楽しいv





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