*ご注意*
作中、息子・小十郎重綱との混乱を避けるため、初代・小十郎は『景綱』の名で統一してます
別辞
───片倉備中守景綱が死んだ。
その知らせが届いたのは、帰国してひと月を過ぎる頃だった。
「・・・殿」
成実は遠慮がちに声をかけた。書状を持ったまましばし呆けていた政宗は、『ああ・・・』と溜息のような返事をし、続けた。
「綱元、使者にはそちが立ってくれ。蔦と小十郎には、わしからの悔やみを伝えよ。香典も懇ろに、な」
「は、承知仕りました。さっそく明朝、早々に発ちまする」
「うむ、頼んだぞ・・・」
そう指図する政宗はいつもと同じに見えた。しかし、そのあとすぐに閑所に引き篭ると、誰とも会おうとはしなかった。
約半年前、大阪での戦でついに豊臣は滅び、政宗が云う所の“売りに出された天下”の買い手は徳川家康ということに決まった。
そして諸々の後始末を終える頃には季節は夏を過ぎ、帰国を果たしたのは秋口となっていた。
政宗は仙臺への帰国の途中、白石に立ち寄った。
白石はこの国の要所である。西へと上るために不可欠な道筋であり、万が一のときには最後の防衛線ともいえる重要な地を、政宗はその血筋にない片倉小十郎景綱に託した。その信頼の深さが伺える知行割りだった。
白石では、病床に伏していることを理由に大阪には従えなかった景綱が、政宗たちの帰りを心待ちにしていた。
しかしそうして訪れた政宗たちを驚かせたのは、その景綱の態度だった。
大阪の戦で自分の名代を務めた息子・小十郎重綱は目を見張る活躍を見せ、“鬼の小十郎”との異名を取るほどの武勇を轟かせた。しかし景綱はその知らせに喜ぶ心を隠し、『将ともあろう者が雑兵相手に切り結ぶとは、なんたる所業か!』と怒り、数日の間、小十郎の登城を許さなかった。
その様を目の当たりにして、政宗も成実も苦笑した。
その姿は、二人を幼少の頃から見守った傅役“片倉小十郎”そのままだった。
しかしその強い心根とは反対に、身体の衰えは隠しようもなかった。
政宗と成実が見舞いに訪れると、景綱はもう人の助けなしには起き上がることも難儀な様子であった。やっとのことで床に座し、二人を迎えた景綱の顔色は悪く、肉も落ちていた。見舞いの知らせに鬢などは整えたようだったが、戦の前にも立ち寄り、見舞った二人にとっては、その体調の悪化は一目瞭然だった。
(ああ、逝ってしまうのか・・・)
口にこそしなかったが、成実はそう確信した。
それはきっと、政宗も同じだったに違いない。
だから、それからひと月後に届いた知らせに、成実は格別驚きはしなかった。
ひと月前の会見で予感はしていたし、もう別れも済ませていた。ただ兄のような頼もしい戦友を失った淋しさだけが、胸に去来した。
それは政宗も同じはずだった。景綱自身その近い別れを、もう何度も様々な形で諭していた。
しかし───
(・・・しかし、そう簡単なものでもなかろうて・・・)
閑所に篭ったきりの政宗に、成実は溜息交じりに思った。
幼い頃から三人は共に在った。
景綱は剣に馬術、学問、果ては様々な遊びまで多くのことを教えてくれた。そして長じては戦場で共に命を懸け、さまざまな苦難を乗り越え、この国を作り上げてきた。
しかしいつも共にありながらも、あの二人の関係とは一線を画するものがあった。
成実は大森城主の嫡子であり、先代輝宗の従兄弟にあたり、母方を辿れば政宗と従兄弟に当たる。家臣であるとともに、伊達家の親類という、家中でもその地位と血筋には他に比類ない。そのうえ恵まれたことに二親ともに慈しまれ、身体も人一倍丈夫に育った。
しかし本家の嫡子である政宗は、幼いうちに片目を失い、母とも不和に陥った。唯一自身を慈しみ、信じてくれた父も無残な殺され方で、早くに亡くしている。
誰よりも恵まれているはずの子は、誰よりも多くの悲しみを背負わねばならなかった。
そんな政宗の常に傍にあり、政務においても、また精神的にも支えたのは、間違いなく景綱だ。
身分は成実に比べるまでもなく低く、その血筋も決して悪いものではなかったが、これというものでもない。しかし、突出したその才覚で周囲に妬まれるほどの出世を果たした。
そうした自身も安寧ではない中、政宗を庇い、奮い立たせ、伊達家の当主として恥ずかしくない教育を施した。
景綱本人に云えば、『わたくしなど小指の先ほどにもお役に立ってなど申さん。家臣一同と我が殿のお力です』などと謙遜一点張りだろう。事実、酒の席などで何度もそんな話をしたものだ。
そんな二人の裂き難く、深い関係。
しかし別れは、否応なくやって来る。
(小十郎の不忠義者めが。なぜもう少し忠勤に励まなんだ・・・)
こんな思いは、埒も無いことと判っている。しかし、成実はぼやかずにはいられない。
天下は定まったとはいえ、まだまだ不安定だ。
政宗の娘婿である忠輝は、大御所である家康の息子であり、現将軍の弟であるにもかかわらず、その謀叛を疑われたままだ。そしてそれは後見ともなる政宗をも、疑われているということに他ならない。
その事も景綱は遺言として言い残していた。
そして大阪の戦がおそらく最後の戦になる、との景綱の言葉もまた現実となるだろう。
すべて景綱が予見していた通りに事は進んでいる。
二百年も続いた戦乱が終わる。
あともう少しで本当に天下が定まる。
そしてこの伊達家の命運も、政宗の行く末も・・・
「どうして・・そのすべてを、見届けてから逝かなんだか・・・!」
成実は政宗が篭る閑所を見据えながら、何処にもぶつけられない苛立ちにその身を震わせた。
政宗が閑所に篭って三日経った。
声をかければ返事をするが、部屋には決して誰も入れようとはしない。お気に入りの小姓たちが替わるがわる食事を運ぶが、廊下に置いてゆくように申し付けて、姿を見せようともしない。そしてその食事にも、満足に手を付けようとはしなかった。
「安房守さま、いかがしたものでしょう?」
成実の元に小姓の一人がやって来くると、弱り顔で云う。
「うーむ・・・」
成実は腕を組み、唸った。
こういう時は景綱に頼むのが一番だ。政宗の機微を察し、宥めすかし、上手いこと部屋から連れ出すのだ・・・
───だが、景綱はもういない。
そうしていま政宗が篭る原因が、その景綱なのだ。
「うーむ・・・」
成実は再び唸った。
こんなときに役立つだろう相談相手の綱元は、まだ白石から帰らない。葬儀の世話もあるだろうから、あと数日は帰らないだろう。
ろくに食わない政宗を前に、綱元の帰りを悠長に待つわけにはいかない。
やはり自分が何とかするしかないのだろう。
「・・・わかった。とにかく、わしが話をしてみよう」
控える小姓にそう告げると、成実は政宗の元に向かった。
閑所の前に立ち、成実は途方に暮れた。
小姓へはああ云ったが、何か特別な策があるわけではなかった。
そもそも豪放な自分は人の機微には疎い。自覚さえあるほどだ。
善か悪か。
是か非か。
成実はそうした、はっきりとした人生を送ってきた。
もう二十年近く前、一度政宗の元を飛び出したことがあった。そのときも自身が正しいと信じるゆえに、他人におもねる事が出来ず出奔したのだ。
出奔してすぐの頃、高野山へ隠れ住んでいたのを探し当て、景綱が尋ねてきたことがあった。
そのとき景綱とは二日ほど共に過ごした。百姓の真似事をしていた自分に付き合って、薪割りや水汲みを手伝ってくれたりした。夜は久々に酒を酌み交わし、他愛ない話をしたが、その間も説教めいたことは何も云わなかった。
明朝、暇乞いをする景綱は、再会して初めて帰参を促した。
『殿は、決して成実どのをないがしろにしてはおりませぬ。あのお方がどういうお気持ちで今のお立場に甘んじておられるか、ずっとお傍にあった貴方ならばお判りのはず』
そう云った景綱の気持ちも、また政宗の思いも、そのときは汲み取る事はできなかった。
『小十郎、もうよい!わしはもう、殿の元に帰る気はない。・・・百姓も悪くはない。もう武士は捨てると決めたのじゃ。殿にはそう申せ!』
そう云い捨てた自分は、まだ何も判ってはいなかったのだ。
その後の厳しい自然の理と慣れぬ百姓暮らしは、想像以上に苦しいものだった。
戦に出て命を懸けることも、田畑を耕し暮らすことも同じ人の営みで、どちらが楽だなどということはなかった。
百姓も武士も、腹も空けば糞もする。悲しければ泣き、嬉しければ笑う。
皆同じ“人”だ。
自身を貫くだけでは、生きてはいけない。
例え頭は下げても、心は高く置けばいい。
数年の牢人生活で、ようやくそれが判った。
そして自身よりも多くのものを背負いながら、故太閤の前で伏し、家康に下った政宗の大きさに気づいた。
誰よりも誇り高く、誰よりも高い志を持ちながら、どんな思いで膝を屈してきたのか───
そのことに気づくのに、三年も掛かってしまった。
そうして政宗の元に戻った。
「・・・誰じゃ?」
障子越し政宗の誰何があった。
昔を思い出し、呆けていた成実は我に返り、咳払いしながら答えた。
「成実にございまする」
「・・・何ぞ、あったか?」
ほとんど話さないせいだろう、少し声が掠れている。
「いや、何ということもござらんが、その・・・殿、腹は空きませぬか?」
云ってから間抜けだと思った。何とも直接的で芸がない。
しかし額を押さえる成実の元に、答えが返ってきた。
「腹は・・・あまり空かん」
「しかし、ここ三日ばかりろくに食っていらっしゃらんだろう。小姓たちも心配しておる」
「・・・腹は空かんのだから、食わん。小姓たちには心配いらぬとゆうてくれ」
もっともと云えばもっともな返答だったが、なんともやはりへそ曲りだ。
成実はふうとひとつ大きく息を吐いた。
結局、自分らしく正攻法に出るしかないか。
「綱元も白石からまだ帰りませぬ。そのうえ殿までこうしておられては、片付けねばならぬ仕事が増えるばかりじゃ。成実一人では、もはや捌き切れませぬ。どうか出てきては下さいませぬか?」
「・・・もう少し・・もう少し、待て」
「少しとは、あとどれくらいでござるか?一刻ですか?半日ですか?それとも・・・」
「あと少しだと、云っている!!!」
激昂しながらもどこか泣き声に似た政宗の叫びに、成実も思わず声を荒げた。
「殿!そのようにしていても、もう景綱は・・小十郎はここへは来ぬ!」
障子越しに、ぐらりと空気が揺れた気がした。
こうして閑所に篭る政宗の迎えは、景綱と決まっていた。重臣となってからも、自ら茶を点て運び、共に部屋を出る。
常に人に接する領主という立場は、成実が思う以上に重苦しく、ときには投げ出してしまいたいほどだろう。そうして一人になりたくて進んで篭る政宗だったが、その反面、きっとその場所から連れ出してくれる迎えを待っていた。
幼い頃、やはり引き篭もる自分を外の世界へ連れ出した唯一の存在。
その存在が永遠に失われた事を、目の前に突き付ける。
酷い事をしているのは、成実とて判っている。
しかしもう───片倉小十郎景綱はいないのだ。
自身が放った言葉のきりきりとした痛みに、成実は立ち尽していた。
しばらくしてことり、と音がした。障子一枚を隔てた、すぐそこにいる人の気配。
「安房・・成実。明日まで、待て。明日には必ずここを出る・・・約束する」
「・・・承知いたしました」
成実はそれだけ云うと、静かに立ち去った。
翌日、政宗は約束通り閑所を出た。
その顔は少しやつれてはいたが、以前と同じ精気を持っていた。そうして今まで通りに精力的に政務をこなし、仙臺から江戸や京とを行ったり来たりと忙しい生活を送った。
それからの政宗は時折、一本の笛を持ち出すようになった。
その笛は、かつて政宗の父・輝宗が景綱に下賜し、その死を前に政宗に形見として献上したものだった。
成実や綱元なども顔を揃えた酒の席の手慰みに、笛の得手な者を呼び出し吹かせもしたが、誰も景綱以上の音色を響かせたものはいなかった。
そのたびに、政宗は落胆と不思議な安堵をその顔にわずかに滲ませた。
成実にもその主君の気持ちだけは、判る気がした。
<終>
小十郎が死んで、三日三晩閉じこもったという政宗。その間、家臣たちはヤキモキしたろうなーと。
成実にとっても小十郎は友であり同僚で、たぶん政宗の次くらいに近い存在で、そのも悲しみかなりなものだったのではないでしょうか。
『安房』は正式には『安房守』、成実の役職名みたいなもんです。