望蜀
「さあ!何処からでも参られよ!」
「うおりゃあーーーーーーーーっ!」
「殿!しっかりなされよ!!」
庭には勇ましい掛け声と木刀のぶつかり合う堅い音が響く。
小十郎が傅役となってから日課になった剣術の稽古の時間。少し前からは成実も加わり、政宗にとって楽しみな時間であった。
領主として剣や馬の技術を高め戦に備えることは大事ではあったが、実際それよりも日々の時間の多くを裂くのは書き物の類だった。
国を治めるために配置された各役所や近隣の領主からの書状の数は思いのほか多い。そして常に西へ東へと放ってある間諜たちからは様々に細工が施された文が届く。それらすべてにに目を通すとあっという間に時が過ぎる。それらに返事を書き、思慮する時間も大事には違いなかった。また自身の中で練られた策を弄し、予想通りに事が運べば、その喜びの大きさも計り知れない。
しかしそればかりでは若い政宗にとっては物足りなかった。何よりも精神が満たされれば、不思議と身体が飢えた。小十郎や成実と剣を交わすのはそうした飢えを満たすには絶好のものであった。
政宗の切っ先は小十郎を捉えたまま。
小十郎の構えには一分の隙も無く、じりじりとして機会を待つ。と、ふいに空いた小十郎の胸元に飛び込めば、あっという間に脇を払われた。
「うわっ!」
「殿っ!」
成実の叫びと政宗が体勢を崩したのはほとんど同時だった。そして間髪入れず、膝をついた政宗の額にはぴたりと切っ先が当てられた。
「・・殿、相手の誘いに簡単に乗ってはなりませぬぞ」
小十郎は静かに告げると剣を下ろし、政宗の二の腕を掴み立たせ、袴についた埃を払った。
「いや小十郎、見事!」
自身もかなりの腕前を持つ成実も感嘆の声を上げる。
「くそっ!まだまだ小十郎には敵わぬか・・・・」
「はは・・これでも十年の長がございますれば、そう簡単にやられまいては堪りませぬ。さあ、お二方とも今日はこれまでに。汗を流しましょうぞ」
「はっはっはっは!小十郎の言う通りじゃ。十も年少の我らにやられたとあっては文武両道の聞こえも高い小十郎も面目が立ち申さんて!さ、殿、参ろう」
成実は憮然としたままの政宗を促し、二人で先を行く小十郎の後を追った。
春を過ぎ初夏の手前という昨今、汗ばむ肌に風が心地良い陽気だった。
剣術指南の間は師匠のような小十郎も、すでに家臣に戻っていた。先に井戸端に着いた小十郎は二人の分の水を汲み上げ、それぞれにすでに固く絞った手拭いを渡す。
上位である政宗と成実が身体を拭き始めると、小十郎自身も汗を拭い始めた。
「おお、小十郎。やはりおぬしの肩、立派なものよのう!」
「はあ・・・左程のこともございませぬでしょう。某などよりさすが武勇に聞こえる成実どのこそ、ご立派なお身体であられる」
そのやり取りに顔を向ければ、政宗の視線は小十郎の肌蹴た上半身にぶつかった。
陽の下で見る小十郎の身体は良く締まり、無駄な肉など一切ついていない。肩から二の腕にかけては隆々とした曲線を描き、力強い。
視線を移すと激しい剣の稽古でほつれた後れ毛が首筋に張り付き、やけに艶めいて見える。首筋を辿りすっと伸びた背筋に美しく浮き出たその筋に行き当たると、ふと夜具の上で驚くほど柔らかくしなるさまを思い出し、政宗の胸がどくりと大きく音を立てた。
「・・むう、しかしこの胸板はなかなかのものぞ。一体どういう鍛錬をしておるのだ?」
気が付くと成実はその掌で小十郎の胸板を興味深げに確かめている。
「・・・小十郎っ!」
「は・・、如何なさいましたか?」
政宗の呼ぶ声に小十郎はすぐさま振り向く。咄嗟に呼んだはいいものの、用があってのものではない。ただ小十郎の身体を自分以外の誰かが触れるのに我慢ならなかった。
「いや、その、せ・・そう背中を拭いてくれぬか。手が届かぬゆえ・・」
「あ、これは気が利かぬことで、申し訳ございませぬ」
政宗の心中など思いも拠らない小十郎は当然のように詫び、手拭いを受け取ると汲み置いた水で濯ぎ直した。
「・・相変わらず若君と傅役じゃのう。さて、某はお先に失礼致す」
成実は二人の様子にそんな感想を漏らすと上着を着込み歩き出した。と、おもむろに政宗の横で足を止めると顔を寄せ耳打ちをした。
「・・誰も小十郎を取ろうなとどは思うておりませぬ。ご安心召されよ」
「な・・っ!」
ぎょっとして成実を見れば悪戯小僧のような顔でにやにや笑いをしている。
「はっはっはっ!では失礼仕る!」
「成実!貴様・・・っ!」
今にも飛び掛りそうな政宗を避けるように成実はそのまま駆け去ってしまった。
「殿?成実どのが何か?」
政宗の様子に小十郎がのん気に問い掛ける。しゃがんでいた小十郎には成実の言葉は聞こえなかったらしい。
「・・いや、何でもない」
「では、背をこちらへ」
「ああ・・」
すすぎ直した手拭いはひんやりとして気持ち良かった。背中を拭う力も丁度いい塩梅だ。剣を握れば力強いその手が自分に触れるときは酷く優しい。昔もよくこうして身体を拭ってもらっていたことを思い出す。
「・・・小十郎」
呟きながら掴んだ小十郎の手はやはり男の逞しさを湛えている。しかしその手が時に厳しく向かい、時に優しく自分を守り慈しんでくれたことを覚えている。決して忘れられるようなものではないのだ。
この手を離したくない。そして誰にも渡したくない。
「殿、如何されましたか・・?」
自分の手を握り締め、目を伏せたままの政宗に小十郎は伺うように声を掛けた。その途端、強い力でその腕の中に囚われた。
「・・小十郎、わしの傍を離れるな」
小十郎の耳元で聞こえたそれは、命令のようにも、懇願のようにも聞こえる小さな呟きだった。
「はい、お傍に居りまする」
なんの躊躇いも無く即答する小十郎に政宗は微かに眉根を寄せた。
「ただ傍に、というだけではない。わしはそちの身体も、心も・・全てを欲しているのだぞ?」
「小十郎の全てはとうに政宗さまのものでございますれば・・・」
そう穏やかに告げながら抱き締め返してくる小十郎に、政宗の失われた目の奥さえひどく痛んだ。
(・・・そこまで言うてくれるのか・・)
「・・・そちは、阿呆じゃ」
「そうかもしれませぬな」
自分の憎まれ口にさえ、そんなふうに答える小十郎がいとおしくて堪らなかった。
<終>
すみませーん!
ご指摘で判明したのですが、なんかいつのまにかこの「望蜀」のファイルが真っ白けになっておりました。バックアップももちろんなぜか全消え・・・orz
というわけで、こちらはテキストを引っ張り出してきて再度ファイル作成いたしたものです。ちょっと以前と違うかも・・・?あ、でもお話の筋等は全く変わっておりませんのでお楽しみいただけたら嬉しいです!