亥の刻を過ぎる頃。小十郎は庭に面した廊下を渡り、梵天丸の部屋へ向かっていた。 「今宵は一段と冷えるな・・」 一面雪に覆われた庭を横目に小十郎は呟いた。 やさしい嘘 霜月に入ると奥州の地には早くも雪が舞い降りる。 初雪こそふわふわと頼りなくすぐに溶けて消えるが、二度三度と繰り返すうちに里も山も何処も彼処もが白く染まってしまう。毎年のこととはいえ、その見事なほどの様変わりが小十郎には不思議だった。 寒い中、日中雪遊びに興じた梵天丸は今宵は従兄弟であり、徒小姓でもある時宗丸を自身の部屋に泊めると云い出した。 しかし親戚であるとはいえ、一応は主と家臣という間柄である。 お東の方あたりは、梵天丸とは一つ違いの利発な分家の嫡男である時宗丸をよく思っていない節があった。その辺りのことを考えると、やはり親兄弟のように同じ部屋で寝起きするなどということは憚られた。 だが、当の梵天丸はこの年近い従兄弟を大変気に入り、まるで兄弟のように扱っていた。 竺丸という実の弟もいたが、その弟は母親の手元で手厚く育てられ、たまに会っても他人行儀が抜けない。その点いつも一緒にいる時宗丸のほうが余程近しく、知らぬ者などには本当の兄弟と云っても判らないほどであったろう。とは云うものの、周囲の者までが同じように扱うことは、伊達家の影の実力者で気性も激しいお東の前ではやはり憚られた。 しかし幸い、この日お東の方は湯治へと出かけていた。連れには次男で溺愛する竺丸を選んで。 梵天丸はどんな思いで二人の外出を聞いただろう。 常より同じ館にありながら、嫡男であるという理由から母親から引き離されて暮らす寂しさ。 そして自分に向けられるであったろう愛情を一身に受ける弟の存在。 十を少し越えたばかりの梵天丸がそれらを意識して、時宗丸を泊めることにしたのかはわからない。しかしそんな諸々を思うと、小十郎はいつも胸の辺りがきゅうと痛んだ。 梵天丸の養育係りで姉の喜多もそれらを覚ってか、このたびの時宗丸の"お泊り"をすぐに許した。 小十郎が梵天丸の部屋の手前まで来ると、冬用の板戸が一尺ほど開き、部屋の明かりが漏れていることに気づいた。 急いで駆け寄り室内を見れば、二組敷かれた布団はもぬけの殻。その様子に小十郎の背筋は冷え、頭は瞬時に沸騰した。 「なんとしたこと・・・!梵天丸さまっ!時宗丸さまっ!何処においでです?!」 叫ぶと、思いも寄らぬ返事がすぐに返ってきた。 「小十郎・・?」 声のした方へ振り返ると、庭に下りきょとんとしてこちらを見る梵天丸と時宗丸の姿があった。 小十郎は雪の敷き詰められた庭に飛び降りてふたりに駆け寄ると、口早に捲くし立てた。 「若!それに時宗丸さまもご無事で・・!何があったのです?お怪我は?ああ、宿直役は何をしていたのだっ!?」 心配から怒りに変わっていく小十郎に圧倒されていた童二人だったが、すぐに時宗丸が口を開いた。 「若もわしも無事じゃぞ、小十郎。とのいは左馬助じゃが、若が腹が減ったと申すのでくりやに使いにやった」 淡々と話す時宗丸に、沸騰したようだった小十郎の頭も急激に冷えていった。 「左様で、ございますか・・・では、おふたりともこのような中で何をしておいでです?」 庭に佇んでいたふたりは綿入れを着込み、一応の暖は取れているようだった。しかし足元は素足に草履というもので寒々しいことこの上ない。このままでいては霜焼けか、悪くすると凍傷になってしまう。 「とにかくお早く中へ・・・」 小十郎がそう促すと、名前を呼んだきり黙ったままだった梵天丸が口を開いた。 「のう、小十郎。そちにはあれがいくつにみえる?」 あれ、と指差す先には深い闇の中輝く星空があった。夕方強い風が吹いたせいかこの日の夜空はひどく澄み、小さな星までが瞬き、美しかった。その中に目を引く青い星々の塊。 「あれ、と申されるのは、あの青い・・"すばる"のことでしょうか?」 小十郎が確かめると梵天丸はこくりと頷いた。 「時宗丸は六つみえるのだという。しかしわしにはもっとたくさんに見える・・そちはいくつみえる?」 そう問うてくる梵天丸に小十郎の表情が曇った。 齢五つの頃、梵天丸は疱瘡を患い右目を失っていた。 永遠に伏せられた右目に、幼い梵天丸は酷く戸惑い、難儀したと聞く。病が癒えてもしばらくは歩くたびに柱や壁にぶつかっていた、と姉の喜多からも聞いたことがある。 あれから数年経ったいま、通常の立ち居振舞いに不都合はなくなっていた。が、これから元服し、避けられないであろう戦において、死角となる右側を克服すること。それが梵天丸にも、また傅役の小十郎にとっても大きな課題となっていたのだが・・・梵天丸のこの発言は見過ごせず、小十郎も空を仰ぎ見た。 "昴" 古くは"すもる"と呼ばれ、万葉集にも"須売流玉(すもるのたま)"との記述もある。 通常の人ならば六つから七つほど見える星の数が、梵天丸にはそれ以上に見えるらしい。 その事実は、梵天丸の視力の弱さを意味した。 「・・若君。若君にはあれがいくつに見えまするのか?八つ・・それとも十ほどで?」 梵天丸の問いは受け流し、小十郎は己の問いを重ねた。梵天丸は小十郎の問いに間違わず答えようとしたのか、もう一度空を見上げると目を細めた。 「・・・十・・いやもうすこし多い気がする。十二くらい・・?」 (倍、か・・・) 小十郎は心中で呟いた。 いくら秀才の誉れ高い小十郎とはいえ、医術の知識があるわけではない。その数が梵天丸の視力の悪さをどれくらい表わすものなのか──正直なところ判らなかった。 「・・っくしゅ!さむいっ!若、もう中へ戻りましょうぞ」 「ああ。左様、お風邪でも召したら大変です。とにかく部屋へ戻り、温まりましょう」 「うん」 時宗丸のくしゃみに救われた思いで、再度促すと今度は従ってくれた。梵天丸は素直に部屋に戻ると左馬助の夜食も待たず、そのまま布団に潜り込み寝てしまった。 翌日、小十郎はさっそく梵天丸の典医の元へ赴くと昨夜の一件を説明した。 梵天丸本人を連れて来ようか迷ったが、痛みを訴えるわけでもなく、当分の暮らしに影響するものでもない。それに傅役とはいえ、一家臣である己の勝手な判断で余計な憶測を呼んでは元も子もない。そう考えてのひとりでの訪問であった。 「・・・なるほど」 小十郎の話にそう相槌を打つと、典医はしばらく黙り込んでしまった。 患者本人を連れてきたわけではないし、この国の次期総領相手のことである。慎重な判断に越したことはない。 小十郎はそう思い、出されていた茶を啜りながらゆっくりと返事を待とうと思った。が、予想に反して典医は口を開いた。 「いやはや・・」 そう云いながら、典医は自身も茶を口に含み喉を潤すと再び口を開いた。 「正直なところを申しますれば、傅役どののお話のような事は前々より案じていた事にございます」 「なんと!典医どのにはお判りだったと?」 「はい」 驚く小十郎に対して典医は静かに頷き、左様、と典医は言葉を選びながら訥々と語った。 「元より人は両眼を持って生まれ、遠くや近くがきちんと見えるよう、考えずとも自然にやってのけております・・しかし若君の場合、残った左目だけでそれを為さねばなりませぬ。それは非常にお疲れになり、負担がかかることでありましょう」 ですから視界がぼやけ、昴が何重にも見えたのでしょう、と。 「・・では、もしや、これから益々負担がかかり・・悪くなっていく、ということもあるのですか?」 小十郎は恐る恐る最悪の事態を口にした。 「その可能性もあります」 典医は真剣な面持ちで頷いた。 その返事に、小十郎は体の芯から崩れていくような錯覚に襲われた。 あの子が何をしたというのだろう? 確かに──この乱世に領主の子として生まれ、大きくなればその手に刀を握り、戦に出ては人を殺めるかもしれない。 しかしいまだ誰も傷付けたことのないあの幼子に、何の罪があるというのか? 恵まれた生を受けながら母に疎まれ、右目を失った。そして残った左目までも・・・ただ自身ばかりが傷付いていく。 どうしたらそれを避けられるのだろう? 傅役である己に何ができるのだろう? 自身の不甲斐無さに小十郎はただ唇を噛み締めた。 「ただ・・・」 「ただ・・?」 典医の継いだ言葉に小十郎は顔を上げた。 「まだお小さい若君のことです。これから大きくお成りになる間にそれに慣れ、普通よりは劣るやもしれませぬが・・改善されることも考えられます」 「真ですか・・!?」 暗澹たる気持ちだった小十郎は希望ある言葉に身を乗り出したが、典医はそれを制した。 「可能性はある、かと。しかしこのような案件はわたくしも初めてのことゆえ、はっきりとしたことは申し上げられないのです。とにかくいまは注意深く若君の様子を見ていただきたい。そして何か異変があれば、すぐにお知らせいただきたいのです。それを片倉さま、お願いできまするか?」 異論などあろうはずもない。自身に出来る事が、少しではあるが、あるのだ。 小十郎はしっかりと頷くと、深々と頭を垂れた。 その夜、梵天丸を今度は小十郎が外に連れ出した。 今夜は温かな綿入れを着せ、足には足袋を履かせた。 そうして庭に出てみれば、夜空は昨夜と同じように澄み渡り、すばるも青々と輝く。梵天丸は背伸びするようにしてそれを眺めた。 「若君。昨夜のご下問にお答えしておりませんでしたね」 小十郎がそう話し掛けると、梵天丸はうんと頷き再び問うた。 「小十郎には、あれはいくつみえる?」 「左様、小十郎も時宗丸さま同様六つ・・今日は七つ見えまするな」 空を見上げて小十郎が答えると、梵天丸はそうか・・と残念そうに呟いた。 「・・やはり、わしの目がおかしいのか・・」 その小さく頭を垂れる姿に小十郎の胸はひどく痛み、流されかけた。 ここで嘘を吐くのは簡単だった。 そんなことはありません。実は小十郎にもたくさん見えます、と。 しかしひとつ嘘を吐けば、その嘘を守るためにまた嘘を吐かねばならなくなる。 その嘘を庇う為にまた・・・と、そうやって嘘を重ねて。そうしていくうちにいずれその嘘の重みに耐え切れなくなって晒すのは、嘘という肥えを得て育ってしまう残酷な事実。それがこの方のためになるはずもない。 だから小十郎はその同情という激流に耐えた。 「若君の目は片方しか見えませぬな?」 「・・・うん」 ひどい同意を求めている事は小十郎とて承知だった。しかしこれを認めずしてこの先へは進めない。 「片方だけでは時宗丸さまや私のように、うまく見えないことが・・残念ながらあるのです」 うまく見えない、という言葉に梵天丸の唇がぐっと引き締められた。泣く事を耐えるようなその表情に小十郎はこの幼子の強さを見た気がした。そして続けた。 「ですが、あれが多く見えることは悪い事ばかりではありません」 「え・・?」 「"すばる"という名は"統べる"という言葉が転じてのことだと聞き及びます。ほら、あのように沢山の星が集まり、まるで何かに統べられているようでしょう?」 そう小十郎が云うと、梵天丸はうんうんと頷く。 「多くの星が見えるとおっしゃる若君は、きっと将来あのように多くの者を従える者になるという証しやもしれませぬ。それは瑞兆というものです」 それはまったくの"でまかせ"だった。 そして、嘘との違いも危ういほどの小十郎の願いであり、希望。 「そうか・・わかった」 けれど、そんな小十郎の言葉に梵天丸は力強く頷いて見せた。 「・・殿、こちらにお出ででしたか」 その声に庭に佇み、空を見上げていた政宗が振り向いた。 「おう、小十郎か」 今日も北風が吹き、冷え込んだ一日だった。おかげで頭上には美しい夜空が広がっている。 政宗が再び視線を空へ移してしまうと、小十郎は仕方ないような溜息を吐いた。 「いつまでもそのようなところにお出では風邪を召します」 「のう、昔もこうして星を眺めた・・覚えておるか?」 小十郎の小言も聞かず、また問いへの返事も待たず、政宗は続けた。 「昴がたくさん見えると云ったわしに、そなたは瑞兆だと申したな。そのときは何とはなしに納得したものだったが・・ははっ!何のことはない。わしの目のほうがおかしかったものを、よくもまああんな"でまかせ"を云うたものだ」 さすがは知将、伊達家中に片倉ありよ、と政宗は愉快だと笑った。 「確かにあれを"でまかせ"と云われてしまえば申し開きもございませんが・・けれど、事実そのようになったではありませぬか。"でまかせ"と切って捨てるよりは、"予言"とでも申していただきたいですな」 「はははっ!よくよく口の立つことだな」 己のからかいをさらりと返す小十郎に、政宗は怒るどころか益々愉快そうに笑った。そして当の小十郎も釣られるように笑った。 そこでふと、小十郎が思い出したように問い掛けた。 「ところで殿・・いまあれはいくつ見えまするか?」 「ん?そうさな・・"たくさん"よ」 政宗は笑いを残したまま答えた。 <終> 平成十九年十二月十一日 |