主の遺訓、臣の遺韻














 ───奥州の独眼竜が病に伏しているらしい。

 そんな噂が実しやかに流れ出して、もう随分になる。
 その噂に各地の武将達は訝かしりながら草を放ち、確かな情報を求めた。しかし誰もその真偽を確かめられず、放った間諜は戻らぬ者も 多かった。

 “あの知略に富んだ伊達政宗を相手に、確証が無くては動けない”

 多くの武将達はそうして成り行きを見守っていた───










 各地のそんな密やかな動きの中、伊達政宗は確かに病の床に伏していた。
 
 半年前から食欲が湧かなくなった。
 そのうち物を飲み込むたびにコトリ、コトリと引っ掛かりを感じるようになった。そうなると食べる事が億劫になり、自然体重も落ち始めた。そのことに最初に気づいたのは小十郎だった。傅役になってから十年、政宗が成人してからは侍大将として、ずっとそばにいるのだから当然のことだった。
 幼い頃患った病のことがあるのか、政宗は医者ににかかるのを酷く嫌がる。初めこそあれこれ宥めすかして説得していた小十郎も、その異常な痩せ方に最後は怒鳴りつけるほどだった。そうして典医に診せて判ったのは、食欲の無さは胃の腑に出来た腫れ物が原因だということ。

 そして政宗の余命があと半年ということだった。










 少し前から、政宗は一日のほとんどを床で過ごすようになっていた。
 その朝も目を覚ますと起き上がることも億劫そうな政宗の様子に、小十郎は他人には判らぬほどわずかにその表情を曇らせた。数日前からは発熱もしていたから、体力もかなり消耗しているはずだ。それでも政宗は、小十郎の手を借りて上体を起こすと重臣達を集めるよう指示した。



 人前では決して横にならない政宗は柱を背にして皆を迎えた。
 政宗の私室に入れるのは重臣の中でもごく僅かだ。それも床に付くようになってからは、小十郎を筆頭に成実、鬼庭綱元、鈴木元信など側近中の側近である数名にしか許されなかった。
 そうして久々に見た主君の姿に多くの者が息を飲んだ。
 満足に食事も取れない体は痩せ、美しかった黒髪の艶もなくパサついているのがわかる。ただ左の窪んだ眼窟の奥では、未だ鋭い目の光だけがギラギラとしてアンバランスだった。



 余命半年の宣告を受けてからの政宗は無駄な戦に時間を割くこともなく、ひたすら政務に打ち込んだ。何も知らない家臣たちは、政務嫌いの政宗が文句のひとつも云わずに書院に篭っているのを大層不思議がった。病のことは重臣達の中でもごく一部の者だけが知る秘密とされていたから、それは当然の反応だった。
 しかし時を経るにつれ食べられない政宗の体力は落ち、横になる時間が増え、政務をこなすことも難しくなってきた。そんな政宗に典医は特別な薬を処方した。

 『これをお飲みになれば、しばらくはその症状から解放されましょう。しかしそれは一時的なものでございますゆえ、くれぐれもご承知置きを・・・』

 典医は薬を差し出しながらそう告げた。
 薬はすこぶる効いた。お陰で食欲も出て、体力も回復し、このまま介抱に向かうかに見えた。が、それは典医の云うように一時的なものだった。やはり名医と名高い典医の見立てに間違いはなく、政宗の身体は確実に病に蝕まれていった。



 そうしてこの日、何かを悟ったのであろう政宗はその姿を晒す事で、その遠くはない己の死を重臣たちに知らしめた。
 変わり果てたその姿に多くの重臣がざわめく中、政宗は微かに笑った。恐らくそんな表情に気付いたのは、すぐ脇に控えていた小十郎だけだったろう。そして小十郎もまた誰にも判らないほど僅かにその顔を歪めた。
 不安が露わになったさざめきの中、政宗が口を開くとその場は一斉に静まり返った。
 まず政宗は朝早くから集まってくれたことを労い、余計な事を一切話すことなく、自身亡き後の指図を詳細に申し付けていった。

 跡目は弟の小次郎に継がせること。
 菩提は資福寺の虎哉宗乙に弔いを頼むこと。
 自身の喪に服すことは最低限とし、小次郎の相続が円滑に進むよう計らうこと。
 そして自分の後を追う、一切の殉死を禁じる・・・。
 
 他にも当主が代替わりする際、必ず起こるであろう問題のあれこれについても言及されていた。その内容は微に入り細にわたり、このためにあれほど嫌いな政務をこなしていたのだと、その場の誰もが納得した。
 
 「・・以上が、オレから申し付けておくことすべてだ。understand?」

 「委細、承知いたしました」

 綱元が代表して答えると、政宗はゆっくりと頷いた。

 「・・・good。ご苦労だった、下がってくれ」

 家臣たちはそれぞれが深々と頭を垂れ、ひと言ふた言政宗に声をかけてその場を辞した。そして最後の一人が出て行ってしまうと、政宗はふうと大きく息を吐き出した。

 「・・・少し横になられますか?」

 一人、部屋に残った小十郎はそっと声をかけた。

 「ああ、そうだな・・手を貸してくれ」

 「はい」

 以前の政宗ならば、いくら具合が悪い時でも人の手を借りる事などなかった。しかしもう、自身の力で体を支える事さえ覚束ない。そんな政宗を小十郎が抱きかかえるように腕を回すと、政宗もその上体を預けた。

 ───軽い

 昨日よりも今日。そして明日はもっと軽く感じるのだろう。
 まるで命を削り取られていくかのように軽くなっていく体に、小十郎の背筋に嫌な震えが走った。

 政宗が病に臥せってからは、小十郎はほとんどその傍を離れることはなかった。
 満足に飲み込めず戻してしまう食事の世話をし、その身体を毎日拭き清めて着替えをさせるのも小十郎だ。侍女や正室である愛姫がその役目を負おうとしたが、政宗が嫌がった。“伊達者”と呼ばれる男は、自身の弱った姿をおんな子どもに晒すことを許さなかった。

 すべてが夢なのではないか?それならば、早く醒めて欲しい───

 そんな期待も虚しく、政宗の命が尽きようとしていることを、小十郎は日々思い知らされるばかりだった。

 もう何度、神仏に祈った事だろう。
 替われるものなら替わってやりたい。
 己の命を差し出して助かるものなら、喜んで差し出そう。
 この心の臓を抉り出すことだって厭わない。

 けれど、神も仏もこの願いを聞き遂げてくれる気配はない。
 何処までも際限なく続く悪い夢を見ているようで、時に気が狂ったように叫びたくなる。
 しかしそれはできない。この状況に耐えることが己の役目であり、耐えられなければ政宗の傍にいることは叶わないことを小十郎は知っていたからだ。
 
 「・・・小十郎」

 骨張った身体を横にすると、そっと息を吐き出すように呼ばれた。

 「はい」

 「お前、死ぬなよ?」

 「!」

 政宗の言葉に小十郎の身体は強張り、声さえ出なかった。そんな小十郎を見て政宗は苦い笑みを浮かべた。まるで当てたくなかったくじが当たったかのように。

 この我が儘で乱暴者な、そしてとても聡明な主はすべてを判っている──小十郎はそんな政宗を見て悟った。



 傅役になったときから死を恐れたことはない。己の“死”は、すなわち主である政宗の“生”を意味するからだ。だから、その死に場所は戦場か、城内のどこかで刺客に打たれて・・・とにかく畳の上で死ねるとは思っていはいなかった。
 それなのにこの好戦的な主は、いま病魔という刺客に襲われ死にかけている。そしてその刺客にはどうやっても勝てず、ましてや庇うことも出来ない。

 だがどこで死のうと、何で死のうと、どこまでも主を守って付き従うのが己の役目で本分だ。何よりそれこそが己の望むことなのだと、小十郎は死の床に付いた政宗の傍にいるうちに気付いた。

 己の死に場所なぞ問題ではない。ただ何処までも共に在ろうと、それだけを願っていた。
 だから、政宗亡き後は当然のように後を追うつもりだったのだ。

 (・・・それなのに、それを止めるのか?)

 小十郎が視線を動かせば、自分を見上げる政宗の片目にぶつかる。

 「・・なあ、小十郎。今だってオレが動かない事を不審がってる奴らが草どもを放って、その隙を虎視眈々と狙ってやがる。それならオレが死んだと知れた日にゃ、すぐにでもこの奥州に侵攻してくる奴らがどれほどいるか・・・小次郎は頭はいいが、ちっと気が弱いとこがあるからな。だからお前や皆で盛り立ててやってくれ。そうでなきゃ、オレは安心して死ねねぇよ」

 「・・そんな、そんなことは・・・」

 やっと搾り出した言葉は殉死の否定なのか、それとも抗いようのない主の死の否定なのか。何を云いたいのか小十郎本人にさえ、判らなかった。

 「・・・お前は生きろ」

 「オレの右目の代わりに見てきたように。オレが死んでも、その両目で世界を見てくれよ。そんで天寿をまっとうしたらオレんところに来て、話してくれよ」

 そう楽しそうに話す政宗の瞳の色はひどく薄く、柔らかい。

 「だから後を追うなんてバカなこと、すんなよ」

 念を押すように云いながら持ち上げられた政宗の骨張った掌が、膝の上に握り締められた小十郎の拳を包んだ。その温かさに小十郎の顔が歪む。

 (・・・この性格を・・この心を知った上で、そんなことをおっしゃるのか?)

 「・・・それは、ご命令ですか?」

 目に見えないものに締め付けられたような喉を震わせ、小十郎は問うた。
 これが命令などではないことは小十郎にも判っている。
 これは政宗の“願い”だ。
 けれど、こんな優しく残酷な願いなど聞けない。叶えることなど願い下げだ。
 しかし、同じくらい聞き遂げてやりたいとも思う。だから、そのためのひと言が欲しい。

 「・・・そう、だな。これは命令だ。殉死は許さねぇ。お前は“生きろ”」

 しばし沈黙し目を伏せていた政宗は、しかしその視線を上げるときっぱりと答えた。

 「・・・はい、政宗さま」

 それは政宗の最後の命令になった。





 



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